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日本書紀等正史に記述がなく、他文献や金石文によって言及される元号のこと 一次資料日本書紀 続日本紀 九州年号(古写本n.d.) 二次資料二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考 茅窓漫録 三次資料 未分類 一次資料 日本書紀 元号 期間 開始 大化 6年 巻第廿五孝徳天皇 天豐財重日足姫天皇四年(645) 六月乙卯(19日) 白雉 5年 巻第廿五孝徳天皇 白雉元年(650) 二月甲申(15日) 朱鳥 1年 巻第廿九天武天皇 朱鳥元年(650) 七月戌午(20日) 続日本紀 大宝 4年 文武天皇 慶雲 5年 和銅 8年 元明天皇 九州年号(古写本n.d.) 二次資料 二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考 茅窓漫録 三次資料 未分類
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スクナカタオヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリ(少名形男彦天皇天日身光天皇) 日本神話『竹内文書』におけるウガヤフキアエズ朝第19代天皇。
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thumb|「大政奉還図」 邨田丹陵 筆 大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜が、統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件である。 概略 江戸時代後期には、江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。 薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、慶応3年(1867年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に明治天皇へ上奏文を提出した。そして翌・10月15日(11月10日)、天皇は参内した慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立した。この大政奉還は坂本龍馬が発案計画したものであった。 おりしも、倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていたときである。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。慶喜は10月24日に征夷大将軍職辞職も朝廷に申し出る。当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。 実際に朝廷は外交に関しては全くなすすべが無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府の役人であった。 この時点で倒幕派公家が朝廷内の主導権を握っていたわけではなかった。前年・慶応2年12月25日の親徳川派の孝明天皇崩御を受け、慶応3年1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と年若く、やはり親徳川派である関白・二条斉敬(慶喜の従兄)が約80年ぶりとなる摂政に就任した。朝廷内では二条家を含む五摂家が他の公家衆に対して支配的な力を持っており、一時期は近衛家が親薩摩、鷹司家が親長州となっていたものの、この頃には徳川家支持に傾いていた。一方三条実美ら過激長州派公家は文久3年8月18日の政変以来廟堂から追放されたままであり、岩倉ら少数の倒幕派公家は家柄が低くそれなりの影響力はあっても朝廷内の主導権を握ってはいなかった。 つまりこの時期の朝廷は、二条摂政や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親徳川派上級公家によってなお主導されていたのであり、さきの討幕の密勅は、主導権を持たない岩倉具視ら倒幕派の中下級公家と薩長側の非常手段として画策されたものである。(詳細は討幕の密勅) このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、クーデターにより親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して天皇親政の新体制をうち立て、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)をもとめて新政権の中心となることを阻止することが必要となり、王政復古へ向かっていくことになった。 備考 明治から第二次世界大戦までの間、天皇に関する行事は11月10日に実施される事が多かった。例えば、昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や紀元二千六百年式典(西暦1940年)は、いずれも11月10日に実施された。これは(大政奉還を勅許し)政権が天皇に復した日が11月10日だった事に因んでいる。 また(徳川慶喜の大政奉還から転じて)企業において創業者一家以外の社長が(パナソニックの松下家、トヨタの豊田家など)創業者一家に社長の地位を返上することを「大政奉還」と呼ぶことがある。 関連項目 日本史の出来事一覧 幕末 明治維新 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月28日 (土) 18 03。
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2007年 2年 1学期期末テスト対策~社会~ ○秦 戦国時代→B.C.221 秦が中国を統一 始皇帝の独裁政治 万里の長城と自分の墓を農民に作らせる 秦→B.C.202 漢が中国を統一 ヨーロッパとの交流(シルクロード) (ローマ帝国) 縄文時代 狩の生活→しかし村を作り集団化 ・住居・・・竪穴住居 ・ゴミ捨て場・・・貝塚 ・縄文土器・・・(厚手でもろい)を使用 弥生時代 稲作が始まる・・・稲の収穫→石包丁 稲の保存→高床倉庫 ○その他の特徴・・・青銅器(祭りに使用) 鉄器(実用品) 弥生土器うすくてかたい ・青銅器・・・銅剣 銅鐸など ○一世紀中頃の日本 中国(漢)の歴史書に記入 日本(倭)は100の小国に分立 その中の奴の国が中国へ使者→金印「漢委奴国王」 ○三世紀の日本 中国の「魏志」倭人伝に記入 邪馬台国の卑弥呼が治める ↓ ※魏と交流する ○古墳時代 奈良県を中心とした国家の成立 →大和王権 王や豪族の墓・・・古墳 (日本独特―前方後円墳) 古墳・・・埴輪などが並べられた ※日本一巨大な古墳・・・大仙古墳 ○4~6世紀の中国と朝鮮 ※日本は古墳時代 中国・・・南北朝時代 朝鮮・・・北→高句麗 中部→百済、新羅 南→加羅 ・加羅→日本と交流 ※この時代 日本に移り住んだ人々→渡来人 ・渡来人・・・漢字 仏教 須恵器を伝える ○隋と唐 中国6世紀末・・・隋が統一 7世紀初め・・・唐が統一 ・唐→律令(法律)を作る→日本も真似する 戸籍を作り税を取る 都―長安(国際都市) ○飛鳥時代 6世紀・・・蘇我氏が天皇に代わり政治を行う 聖徳太子・・・ふたたび天皇中心の世の中にするため 蘇我馬子と協力し政治を行う 冠位十二階・・・才能で役人を決める 遣隋使・・・小野妹子 仏教を広める・・・法隆寺 ※地位 推古天皇の摂政となる ○大化改新 645年・・・中大兄皇子と 中臣鎌足→蘇我氏を倒す 皇子の政治・・・都を難波宮へうつす 公地公民の制度 戸籍をつくる ○天智天皇の死・・・跡継ぎ争い ・672年壬申の乱 ・子 大友皇子 ・弟 大海人皇子→勝利 大海人皇子→天武天皇となる ○平城京・・・奈良時代(701年) 律令国家の制度をととのえる ・2官8省の役所(奈良) 国司・群司・里長 都(平城京)は、唐の都長安を真似する ○律令制 班田収授の法・・・3歳~死ぬまで ・口分田が与えられる その代わり・・・大変重い税(p31の図を参照) 税が重いので農民は田畑をすて、逃亡 743年墾田永年私財法を出す ○摂関政治 摂関政治・・・藤原氏の政治 9世紀・・・藤原氏は娘を天皇の妻にし、政権を握る 孫を天皇にする・・・孫が子供の時→摂政 孫が成人する→関白 実権を握る ・特に権力を握る→道長、頼通 ○院政 11世紀中頃・・・藤原氏と血縁関係のない 後三条天皇が位につく→藤原氏が弱まる 次の白河天皇は上皇となり政治 →院政 ↓ 天皇と上皇の対立(源氏、平氏の活躍) ※貴族寺社も対立に参加 (僧兵の発生
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ゴサクラマチテンノウ(後桜町天皇、後櫻町天皇) 第117代天皇。 関連: トシコナイシンノウ(5) (智子内親王、本名)
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アメノソリエラギヲノスミラミコトアメヒノミヒカリ(天之海童楽之雄天皇天日身光天皇) 日本神話『竹内文書』におけるウガヤフキアエズ朝第28代天皇。
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草案 登場人物 ジュプトル:カササギ オムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は中大兄皇子(天智天皇)の息子 ドレディア:十市皇女 ソーナンス:定恵(真人) アバゴーラ:藤原不比等 父親鎌足と同じタマゴグループで オニゴーリ:鬼室集斯(きしつしゅうし) ゲンガー:行信 ラプラス:淡海三船(おうみのみぶね) ゴルーグ:聖武天皇 大仏から グラエナ:光明皇后(こうみょうこうこう) 性格ずぶとい -- (名無しさん) 2019-08-03 18 15 18 草案 登場人物 ジュプトル:カササギ サーナイト:持統天皇(じとうてんのう) オムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は中大兄皇子(天智天皇)の息子 ドレディア:十市皇女 ソーナンス:定恵(真人) アバゴーラ:藤原不比等 父親鎌足と同じタマゴグループで オニゴーリ:鬼室集斯(きしつしゅうし) アブソル:行信 災いを起きる理由で幽閉されたので=不遇から ラプラス:淡海三船(おうみのみぶね) ゴルーグ:聖武天皇 大仏から グラエナ:光明皇后(こうみょうこうこう) 性格ずぶとい -- (名無しさん) 2019-08-08 20 46 39 草案 登場人物 サザンドラorキリキザン:鬼室福信 -- (名無しさん) 2019-11-05 18 03 09 草案 登場人物 サザンドラorキリキザン:鬼室福信 リザードン:蘇我赤兄 ジュペッタ:有馬皇子 -- (名無しさん) 2019-11-10 09 24 48 草案 ルージュラ 遠智娘 ベトベトン 文武王(法敏) ムーランド 金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-15 21 08 46 草案 登場人物 アーケオス:大友皇子 特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-21 14 51 06 草案 登場人物 マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオスorオムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-29 07 58 22 草案 〇マイナンorルカリオ:大海人皇子(天武天皇)✕マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-02-16 10 14 41 草案 訂正あり↓ ○マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-03-22 14 08 20 草案 マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-07-18 19 05 17 草案 大海人皇子がアバゴーラで藤原不対等をジーランスに変更してほしいです。すいません ダイケンキ:阿部比羅夫 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-08-21 13 31 38 草案 フラージェス:光明皇后(こうみょうこうごう) -- (名無しさん) 2021-02-16 20 31 18 草案 エテボース:大海人皇子(天武天皇) ネギガナイト:阿部比羅夫 オーダイル:文武王(法敏) -- (名無しさん) 2021-11-22 20 53 27
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検証36:用明天皇の意向を代弁する厩戸 用明天皇は、日本の天皇としてはじめて仏教信仰を詔として出した天皇である。 日本書紀には、このように記述されている。 「天皇は病にかかられて宮中に帰られた。 群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた。 『自分は、仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えよ」と。 群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連は勅命の会議に反対して 『どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。(中略)』といった。 蘇我馬子大臣は、『詔に従ってご協力すべきである(中略)といった。」 《講談社学術文庫『日本書紀』(著:宇治谷孟)下巻 P74~75より》 つまり、天皇は群臣に、自ら言っているのである。ここで厩戸王子は一切登場しない。 山岸版 山岸版では、用明天皇は温厚な人物として描かれており、意見はいつも厩戸が代弁する。 仏教信仰の詔も、日本書紀通りではなく、厩戸が代弁するような形をとっている。 この他にも、用明はさほど発言をせず、厩戸が横で代弁して群臣らがたじろぐシーンが多くある。(参考:大王よりも言いたいことを言う厩戸) 池田版 池田版も、日本書紀と違って、病床の用明天皇の気持ちを厩戸が強く代弁するような形を取る。決めセリフを言う時の構図や表情も、群臣達の反応もよく似ている。 大王の気持ちを代弁する厩戸(画像左・池田版、右・山岸版) 検証35:竹田王子と額田部 検証36 検証37:強く威厳のある厩戸の言葉
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6世紀後半の壬申の乱に勝利した天武天皇とその妻・後の持統天皇に よって、朝廷(政権)とは相対的に独立した、新しい国家理念を 象徴する国土と国民の守護神として創立された。 伊勢神宮の前身となるものは遅くとも推古朝(592~628年?) には存在していたと考えられている。 壬申の乱を成功させた大きな要因は伊勢神宮によるもので、 壬申の乱が成功した暁には伊勢の神を天照大神としてあがめまつる事を 神に誓ったのである。この誓約によって天照大神が出現したとされている。 壬申の乱の後の674年、大来皇女を斎王として伊勢に派遣した事を もって伊勢神宮の創立とする意見が多いが、天武天皇の死後に起きた 大津皇子の変に関連して、大来皇女は斎王を解任されて都に戻ると いった内容の文章が「日本書紀」に書いてあり、その文には、 「伊勢神祠」と書かれており、もはや「神宮」では無くなっていた。 つまり伊勢神宮を日本の天の神としてまつる天武天皇の誓約も破棄 されてしまったのである。 そのために天武天皇の妻であった持統天皇がその意思をついで、698年 多気郡多気にあったとされる伊勢神宮を度会郡宇治に遷し、天照大神を 祀る唯一最高の神社として創立した。これが今の「伊勢神宮」であり、 これをもって伊勢神宮の創立とする考えもあるようだ。
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トンガ帝国史では、先史時代から現代にいたるまでの、統一歴トンガ帝国152年現在におけるトンガ帝国領域内の歴史を、トンガ諸島を中心として取り扱う 目次 1,人類の到達 -1,1 ラピタ人の拡散 2,コーカソイド到達以前のトンガ及び周辺諸島 -2,1 トンガ大首長国の成立 -2,2 トンガ大首長国の拡大 -2,3 カウウルフォヌアの改革 -2,4 トゥイ・カノクポルの成立 3,欧州人の到達 4,文章記録成立以降統一歴以前 5,第二次トンガ諸島内戦及びカーペンター・ジャックオーランタン時代 6,南北トンガ統一及び第三次トンガ内戦 7,トンガ人民共和国の成立および拡大 8,大ヒトラント=トンガ戦争とヒトラント統治下のトンガ 9,トンガ解放とトンガ帝国の成立 10,舞鷹戦争以降のトンガ 11,参考資料 1,人類の到達 人間の到達 最初に、フィジーへ到達した人間集団は、21~15万年(7~5万年)前ごろにインド亜大陸南部からスリランカ・スンダ列島を経由してサフル大陸に進出した、オーストラロイドであった。彼らはニューギニアから島々へ広がっていき39600年(3300年)前にはフィジーに既に到達している。 ラピタ人の拡散 一方、トンガ帝国は公式的には、「ラピタ人」の国家と主張しているが、このラピタ人とは、ポリネシア人の元となった集団のことであり、モンゴロイドのプロト・オーストロネシア語族に属する。台湾あたりから軟化した集団は、ニューギニア西部周辺やスラウェシ島へ到達し、分岐を始めた。東へ向かったグループは、東進とともにオーストラロイドと混血化が進んだ。36000年(3000年)ほど前にトンガやラウ諸島へ、30000年(2500年)前ごろにサモアにラピタ人が到達したと考えられている。その後、22800年(1900年)ほど前にラピタ人はサモアからマルキーズ諸島へ、19200年(1600年)ほど前にマルキーズからタヒチへ定住した。18000年(1500年)年ほど前には、ラパ・ヌイ(クラフティン共和国領イースター島)へと拡散するも、ここで拡散速度が鈍化した。15000年(1250年)程前に移住公開が再開され、たひてぃからクック諸島のラロトンガを経て、アオテアロア(ニュージーランド諸島)へ、マルキーズからはハワイへの移住が行われた。ラピタ人のポリネシアへの拡散元となったトンガ・サモアとフィジーの一部地域は歴史的な関係が強く、プロトゥ文化圏と呼称される場合もある。ラピタ人は双系的出自制度と土地帰属意識が強く、「畏れ」や「たたり」のような「タプ」という行動規範的概念があったとされている。彼らは権力・カリスマ性の根源として超自然的な力である「マナ」を想定した。こうした、マナとタプの二つの概念によって、ある程度の政治的統合を生み出していった。13200年(1100年)ほど前にはトンガにおいて全土統一が行われ、身分制社会が形成されたと考えられている。サモアにおいては、面積が広かったため、統一権力者(タファイファ)の出現はまれであったという。 2,コーカソイド到達以前のトンガ及び周辺諸島 トンガ大首長国の成立 トンガ大首長国(トンガ第一帝国)の成立以前に、サモアにおいて、トゥイ・マヌアに強大な国家・交易圏があったが、おそらくグレゴリオ暦での10世紀ごろに衰退がはじまり、それに伴って、成立したのがトンガ帝国と考えられている。 トウィ・トンガの始まりは、謎に包まれているものの、トンガ神話においては、ニウアトプタプ島の族長、セケトアの娘がトンガタプへと旅をし、そこでタンガロアとの間に生まれた子、アホイェトゥに始まるとされている。一方で、伝承によればアホイェトゥは、サモアの貴族にルーツを持つとも伝えられている。 トンガ大首長国の拡大 アホイェトゥは都をトロアへと置いたが、9代トゥイ・トンガは都をヘケタへと移し、10代トゥイトンガのモモは、航海者ロウアの娘、ヌアと結婚し、王権儀礼の樺儀礼をトンガへ導入した。彼女との間にできた子供、11代トゥイ・トンガのトウィ・タトゥイ(おそらくグレゴリオ暦での12世紀ごろに存在したとされる)の代にはトゥイ・トンガは拡大を開始し、フィジー全域とサモアの一部をその統治下へ置いた。また、ロトゥマやフトゥナ、ウヴェア、サモア、ニウアス諸島などへ影響力を持ち、それらから挑発した労働力をもって巨石門、「ハアモンガ・ア・マウイ」を作ったという。事実、トンガタプ島のニウトウアの北西にはグレゴリオ暦12世紀ごろに作成された鳥居状の巨石が位置している。12代トゥイ・トンガ、タラマタは都を、現在のトンガ帝国首都の近くであるウタ・ムアホイの南方にあるムア地区に相当する場所へと移した。しかしならがら、タラマタには男児がおらず、タラマタの弟であるタライハアペペは棒切れをタラマタの息子として即位させたのち、国葬を行い、自らを14代トゥイトンガとして即位した。タライハアペペの息子である、15代トゥイ・トンガ、タラカイファキの治世下でサモアにおいて反乱が発生した。この頃から、トンガ大首長国は対外対内ともに政治的不安定な時代に突入する。事実、19代,22代,23代トゥイ・トンガは傭兵や家臣によって殺された。 カウウルフォヌアの改革 グレゴリオ暦での1470年頃、24代トゥイトンガ・カウウルフォヌアは、政治組織の再編を行うとともに、23代トウイ・トンガ、タカラウアの敵をエウア・ハアパイ・ヴァヴァウ・ニウアス・ニウエ・サモア・フトゥナ・ウヴェアを経て追跡し、捕獲した。この追跡において、カウウルフォヌアは各地において攻守同盟を締結することで、トンガ大首長国の領域を再興させ、守護を任命することによって封建制度を確立した。 また、宗教的権威と世俗的権威が一つのもとにあったトゥイ・トンガに対して、弟のモウンガモトゥにトゥイ・ハアタカラウアという称号を創設し、世俗的権威を与えた。これは、カウウルフォヌアの自主的な行為であるといわれているが、モウンガモトゥの物理的恫喝によって行われたする説もある。これによって、政教分離を達成した。以降、トゥイ・トンガは暗殺から身を守るとともに、万世一系の概念を定着させることで、政治的安定の回復を図った。これ以降、トゥイ・トンガとトゥイ・ハアタカラウアという、のちにトゥイ・トンガがトゥイ・ハアタカラウアより妻をもらうことでより強化される、聖俗二重王権が続くこととなる。このように、権力構造が大きく変化したトンガであったが、トンガタプ島西部においては依然として有力氏族間の紛争が続いた。これに対処するべく歴代のトゥイ・ハアタカラウアは次男をトンガタプ西部へ送り、その地域の平定を試み、グレゴリオ暦1600年ごろにマリエトア一族によってサモアから放逐されるなど、改革後も内外の混乱は続いた。 トゥイ・カノクポルの成立 1610ごろ、6代目トゥイ・ハアタカラウア、モウンガトンガは、ウポル島の有力者主張の娘、トフイアとモウンガトンガ間にできた末子、ンガタによる正式に別家創設を承認し、第三の世襲位であるトゥイ・カノクポルができた。なお、ンガタの根拠地であった、ヒヒフォ地区の伝承によれば、"カノクポル"はサモアのウポル島に由来するという。トゥイ・カノクポル位はサモアの有力主張の後ろ盾もあり、維持されたと考える研究もある。カノクポルとハアタカラウアは世俗的権威として競合し、グレゴリオ暦18世紀ごろには、トゥイ・トンガへ妻を送る権利を奪取し、最終的にカノクポルが世俗的支配者となった。 3,欧州人の到達とトンガ社会の変容 トンガ人とコーカソイドの接触についてのもっとも古い記録は、グレゴリオ暦1616年のオランダによるハウステン艦隊が250名の男女を乗せたカタマランと遭遇し、礼砲を行ったというものであったその後、ハウステン艦隊はタファフィの住民と、食料とくぎやビーズなどの交換を行ったというものであるしかし、その後ハウステンらはマアアトゥ一族が支配していた、ニウアトプタプ島にて現地住民の襲撃を受けた。その直後に彼らはカヴァの儀式に招かれるも、ハウステンらはカヴァを毒と考えたため、儀式を受けず、翌日に襲撃を受け、ニウアトプタプ島を後にした。1643年、第31代トゥイトンガ、カウウルフォヌア3世の治世下に、オランダよりタスマンがトンガタプ島へ訪れたという記録がある。 4,文章記録残存時代以降統一歴以前 統一歴152年現在、トンガ帝国領域内で発見された残存する、トンガ及びその周辺領域について書かれた最古の文章資料は、統一歴前の、B国南洋統監府トンガタプ弁務官によって作成されたものであるが、トンガ国外の文献記録や電子ログなどから、少なくとも統一歴前1600年(グレゴリオ暦1875)ごろには主権国家として憲法が制定され、立憲君主制国家であると宣言を行っていたとされている。 5,第二次トンガ内戦及びカーペンター・ジャックオーランタン時代 B国の管理下から外れ、戦勝国であるA国とC国の管理下に置かれたトンガ諸地域であったが、社会主義国家であった地区の占領区域にて、傀儡政権のジャックオーランタン人民共和国が成立。これに対抗して、ジョン・カーペンター氏による資本主義政権、カーペンター民主主義共和国が成立した。統一歴65に了解をめぐる国境紛争が発生。どちらも正当トンガ政府を自称したため、資本主義政権と社会主義政権の内戦であると捉えられ、第二次トンガ内戦と呼称される戦争が始まった。なお、紛争発生当初は、トンガ紛争、トンガ戦争と呼称されていた。カーペンター・ジャックオーランタン両国の対立は、あくまで社会主義陣営と資本主義陣営の対立の上で成立していたものであり、この冷戦構造の崩壊と、カーペンター・ジャックオーランt南間の友好関係の醸成、カーペンター民主主義共和国における社会主義の躍進によって、トンガ再統合の機運は高まった。結果として、統一歴75年に訂正位どまりで会ったトンガ紛争の白紙和平が発表された。 6,南北トンガ統一及び第三次トンガ内戦 カーペンター国内においてトンガ社会民主党が国政選挙で与党となり、ジャックオーランタン内部のヘゲモニーを穏健派が握った結果、統一歴91年にトンガ人民共和国として統合が決定された。この流れを見る限りでは、何の問題もなくスン住んだかに思われた統合であったが、統合直後より、ジャックオーランタン穏健派とカーペンター社会民主党主流派の間で派閥争いが発生。段階を経ない無謀な統合により、警察組織内部での混乱や、司法上のトラブルなどが相次いだ。このような状況下においては、トンガの南北格差解消への具体的な行動がとられるわけもなく、豊か餡トンガタプには北から移住者が集中し、過密問題が発生する一方、北部では人口流出が続き、旧カーペンター領域に比べて鉄鋼業が開発されていた北部にとっては、第三次産業と一次産業で富を得ている南部は、彼らの成果物を奪う泥棒として嫌悪された。経済的格差や、政治不満など多岐にわたる分断が解消されない状態が続いたのだが、同年末、首都のあるトンガタプ島沖において大規模な地震が発生し、行政において大きな混乱が長期にわたり発生した。その結果として、トンガ全域の治安は悪化の一途をたどった。政府は南部の観光業への悪影響を恐れたため、首都を中心に警察の展開を行ったが、このことによって、その他の地域の警察官の数が不足し始め、治安が悪化。トンガ全で自警団運動がひろがることとなった。結成された自警団は、当初完全に地元の人間によって組織された非政治的な集団であったが、警察の空白状態が続いた結果、自警団の運営に必要な費用を工面できなくなるものも増えた。彼らのパトロンとしてふるまったのは、カーペンターやジャックオーランタン体制下において力を有していた政治家である。彼らは自警団を扶養することで、自警団の私物化、私兵団の結成を進めた。 7,トンガ人民共和国の成立および拡大 もともと社会主義経済をとっていた北部は、集団農業が主体であったが、カーペンターとの統合に伴う経済開放によって土地の私有が可能になった。ジャックオーランタン時代の有力者は次々と土地を私有化していった一方で、労働者階級は土地を安価に買いたたかれ、彼らの生活は急速に悪化していった。 8,大ヒトラント=トンガ戦争とヒトラント統治下のトンガ 9,トンガ解放とトンガ帝国の成立 10,舞鷹戦争以降のトンガ 11,参考資料 「オセアニア現代史」山川出版社 wikipededia日本語記事及び英語記事「トンガの歴史」「トンガ大首長国」 「海洋島嶼国家の原像と変貌」- アジア経済研究所